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上田城探検マップ その二

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 今週は「上田城探検マップ」の続編をお送りします。

上田城の崖下にはかつて、千曲川の分流が流れており、城の守りに重要な役目を果たしていました。そこは、今は駐車場や広場になっていますが、かつてはどんな場所だったのか、上田市教育委員会の文化財保護担当・谷口弘毅さんにお話を聞きました。


尼ヶ淵を探検する!

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 現在の芝生広場や多目的広場一帯は「尼ヶ淵」と呼ばれています。その名の由来は、付近に尼寺があったからなど諸説あるようですが、今も分かっていません。ここは明治時代になるまで川が流れていました。それは千曲川の上流から分岐していたもので、長大な天然の堀の役割を果たし、それを利用して尼ヶ淵の崖上に一番重要な本丸を構えました。

 しかし、大水が出ると崖が削られることから、江戸時代は「城の防御」という役目より、護岸工事に主眼が置かれました。


上田城についておさらい

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 上田城は1583(天正11)年、徳川家康の命を受けた真田昌幸によって、越後の上杉氏に対する最前線の拠点として築かれました。しかし、徳川の大軍を二度撃退したエピソードが有名な上田城は、関ヶ原合戦後に破却されてしまいます。上田領には昌幸のあと長男信之が入り、その後に小諸から移った仙石忠政が治めることに。この時に幕府の許可を得て上田城が復興され、仙石氏の後を受けた松平氏が幕末まで治めました。











地道な石積みの話

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 尼ヶ淵の崖面石垣は、崖が侵食されるのを防ぐために築かれました。石垣の石を一見適当に積んでいくのは「乱積み」といい、仙石氏のころに造られた石垣です。松平氏は積んだ石同士を横に並べ、線が通っているように見える「布目積み」をしています。松平氏の一番の仕事は「尼ヶ淵の石垣を築いたこと」とも言われています。ただ、お城がたくさん築かれた戦国時代や江戸時代初頭とは違って、上田藩では石を切り出す職人が足りず、太郎山だけでなく川原からも石を調達していました。石垣のなかに、丸っこい石があるのはそのためです。櫓の下とその他で石垣の高さが違っているのは、藩の経済事情もあるのでしょうか。

 尼ヶ淵の石垣にはいくつかの疑問点やあれ? と思うようなものが見られます。「算木積み」という、石垣の端で用いられる四角い石を長短交互に積む工法が石垣の途中に見られ、なぜなのか分かっていません。


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 西櫓の西側には、崖の地層がはっきりと見える場所があります。江戸時代に積まれた石垣の裏側がどうなっているのか、なぜ石垣を積んで守らないと崖が崩れてしまうのかが分かるポイントです。

 散策の際、ちょっと気に留めてもらって、時代ごとの石垣の形状を立ち止まって見て下ください。芝生公園の右と左、上からも下から見ても〝映える〟スポットです。










もっと知りたい! 上田城のこと

“紅葉まつり”尼ヶ淵でトークショー 教えて千田先生!上田城のここがすごい!

 11月3日(日・祝)の正午から1時間、上田城跡公園やぐら下芝生広場で、城郭考古学者の千田嘉博先生のトークショーが行われます。参加無料です。

 紅葉が色づく上田城の尼ヶ淵の特設ステージで、千田先生に「上田城のここがすごい」と題してお話しいただきます。お城が好きな人も、あまり詳しくない人も、芝生に座ってくつろいで、大人から子どもまで楽しく「上田城」について学びましょう。

〈問〉上田城復元推進協議会(上田市櫓復元推進室) ☎0268・23・5403

 

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